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涙見せぬように 笑顔でさよならと・・・
永遠の0
見てきました。
小説で2年前に読んでからというもの、とても大好きな物語でした。
この小説で主人公の祖父宮部久藏さんの心情が一切かかれずに
彼の生き様が語られていくのがなんともいえぬむなしさと、輝きがあります。
まるで夜に眺める海の遠い船の灯りのようです。
映像化されて
彼がやつれていく姿を見て
小説にない悲しみを感じました。
これが己の道を信じて生きることなんでしょう。
流れる急流にあるただの岩
一度そこで川の流れは変わるが、結局流れは止まらない。
そんな存在のように感じます。
己の道を進むことは
理解されがたく、ひどく孤独を味わうことでしょう。
それが、重く重く、感じました。
この物語の悲しいところは
彼が死んだ事実ではなく。
彼が死んで悲しむ人がいるという事実です。
死人にとって死は、高き空のような尊さもなければ、蒼き海のような雄大さもない。
ただの死だ。
己の道を生きることはそれだけ、輝いて見えました。
ただ映画のシーンで一箇所
とても悲しい差し替えがありました。
新聞記者が戦争について語るシーンが
まるっと今生きる若者が語るシーンに差し替えられていました。
悔しくてなりません。
この作品は今後も語り継がれるでしょう
継がれた先で
当時の若者はこんな考えを持ってなかったのか。
こんな若者にこの映画は伝えたかったのか。
そう思われては酷い誹謗です。
新聞会社のいくつかが協賛だったとはいえ
その新聞記者が普段紙面で語っていることを今の若者に挿げ替えるなんて
酷いとばっちりです。
今を生きる若者には
日本の将来を現在を憂う者であふれています。
決して新聞で馬鹿にされているような存在ではありません。
それだけがとても悲しかったです。
たとえ青春のまっただなかで
中年や荘年の方に
「おまえら今が一番楽しいんやで、人生楽しめよ」
とか言われても
死ぬときは死ぬんです
この半年で
高校の同級生が二人死にました
二人とも病死です
自殺でも事故でもなく
この間成人式を迎えたばかりの同級生が
脳卒中とガンで死にました
死んだことしか知らされない私には
彼らの死ぬ間際のことは知りません
脳卒中で死んだ子はもともと病気持ちでした
ガンで死んだ彼については細かったことぐらいしか・・・
でも、死ぬんです。
世の調査で自殺やら事故やら言われても
病気で死ぬんです。
成人式以来にひさびさに友にあった場が葬式場である寺で
しかもひとりは棺桶に入ってて
担任だったじいちゃんが神妙な顔して手を合わせて
6年間一緒で一度も泣き顔を見なかった男子が
ありえないぐらい号泣して泣き声あげて
みんなで顔合わせて
なんでこんなところで会わなければあかんのかって表情で
なにも話せないんです
誰もなにも口にしないんです
でも、空はすっごく澄んでて
周りの町並見て
ここでアイツは育ったんだなぁって
思ったり・・・。
あれからいろいろ思うことがあります
でも、答えは見つかりません
どこかで同じように就活してんのかなぁ
どこかで同じように飲み会で楽しんでるのかなぁ
その毎日が彼らにはもうないんだ
ふと、思ったりします
人の死に意味なんてない
これはずっと私が思ってたことです
彼らが死んでも
その死に意味なんてないと思います
ただ、周りの人自身の答えが必要なんだと思います
つまり、その人の死の意味ではなく
その人が死んだことによる周りが思う死の意味です
だから、私の答えは誰の答えとも違うでしょう
答えは
私が死ぬときに気づくかもしれないし
心のどこかで気づいてるのかもしれない
あれからいろいろ思うことがあります
でも、答えは見つかりません
答えをみつけたところで
死んだ彼らには何も意味はないのに・・・
たとえ、私が死んでも
雲は流れ
花は咲き
人々は笑い
懐かしい山野は なにひとつ変わらない
世界から見れば人なんて、ちっぽけな存在でしかない
この手の話しはよく聞く話しだが、以前聞いたときはなんとも悲しく聞こえた
でも
今はそれこそが世界だと思う
だからこそ、精一杯この世界を生き抜いてやろうと
我ながら愚かだと思う
だから今が楽しい